◎先に八木秋子著作集をお譲りしますとお伝えし、
 送料などを調べてみたのですが、
 かつての書籍小包のように、全国均一の送料ではなく
 地域によって異なることを知りました。
 これも民営化の影響ですね。

 そこで、申し訳ありませんが、送料は着払いでお願いします。

◎郵便振替口座を開設しました。
 00230-2-142275


定価原価とします。
 近代の<負>を背負う女 八木秋子著作集Ⅰ
 1978年4月20日刊行  1300円

 夢の落ち葉を 八木秋子著作集 Ⅱ
 1978年12月25日刊行 1800円

 異境への往還から 八木秋子著作集 Ⅲ
 1981年5月11日刊行  2000円


◎購入の流れ 

 振替口座に
 ・住所 ・氏名 ・著作集名 ・冊数 ・(可能であれば電話番号)
 を明記の上
 送金していただければ
 送料着払いでお送りします。


加えて、八木秋子逝去後に発行した小冊子「パシナ」を
付録として差し上げます。

現在残っているのは
 パシナⅠ パシナⅡ パシナⅢ パシナⅥ です。
 任意に選択させていただきます。

もし、
ご希望の「パシナ」の号がありましたら、
以下の目次等をご覧になって
申し込みの際にその旨お書きください。
著作集一冊にパシナ一冊が対応いたします。
(「パシナ」単独の場合は500円)

■パシナ一覧
(パシナとは満鉄「あじあ号」の機関車パシナに由来したもの
 参考 俺は「パシナ」の機関士だ )


◆パシナⅠ 1984秋
母と子の不思議な牽引 相京範昭
人との出会いは途中下車 
 ‐八木秋子への手紙- 相京範昭
胸さわぎ 西川祐子

1paci7.jpg11paci7.jpg◆パシナⅡ 1985春
「背なでて犬の不安を知ってやり」 
 ‐児玉はるさんの話- 相京範昭
永嶋暢子について 岩織政美.pdf
天に花咲く 犬塚せつ子
山間の村を離れて 田中久子
死ねば死にきり 
 ‐追悼橋本義春さん‐ 相京範昭
一九六七年十月八日 八木秋子.pdf
鮮やかなフイルム 西川祐子
 秩父、青雲寺 枝垂れ桜  鎌倉、建長寺 柏槇 
 信州、小野 枝垂れ栗

2paci7.jpg22paci7.jpg◆パシナⅢ 1985秋
あるがままと〈負>
 ‐八木秋子の「子捨て」をめぐって‐ 相京範昭
「この人の句は彫刻だよ」児玉はる(聞き書き) 相京範昭
山の彼方、中央の雲行きを案じて
 ー開拓農民としてー 別所孝三
集団に働く性急な求心力 田中久子
八木秋子からの手紙 西川祐子


3paci7.jpg33paci7.jpg◆パシナⅣ 1986秋
色のない風景 犬塚せつ子
「うしろ手に閉める障子も秋のもの」児玉はる(聞き書き) 相京範昭
成就院から 光田全璃子
江口きちへの想い しのだ・もりの
和子さんへ 相京香代子
岡本文弥の新内「十三夜」 西川祐子

「案外変わらないね」「幾星霜というところかね」
    永嶋暢子 八木秋子 注釈 相京範昭.pdf

 多摩川大遡行

◆パシナⅤ 1987秋
「上布まとう存在というかろきもの」 児玉はる(聞き書き) 相京範昭
大沢池石仏群 相京範昭
一九七七年九月二三日 八木秋子・相京範昭 
五十年前の戦争 西川祐子
静子さんへ 相京香代子
桜島山 真辺致一
九天のかなたヘ 光田全璃子
パ・パ・パシナの酔客 石井誠
酔談放談:岩織さんを囲んで.pdf

◆パシナⅥ 1998秋
済州島 サングンブリ噴火口 相京範昭
吉野幻像 犬塚せつ子
「窓をすぎる鳥のゆくへのたしかさや」 児玉はる(聞き書き) 相京範昭
「はるさん」のおくりもの 瀬戸和子
好きな馬の話をしよう 小郷永顕
『近代日本社会運動史人物大事典』編集委員会会報 特別付録『忘れ得ぬ事ども』に抗議する
 相京範昭

三里塚 矢島芳子
「八木秋子日記」を読む途中で一記憶と叙述一 西川祐子

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八木秋子著作集 お譲りします。

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2019年は玄南工房にとり、出立の記念すべき年となりました。
八木秋子の資料もおおかた整理が終わり、
暮れには思いもよらなかった詩の新発見もありました。


2020年もいっそう進めていきます。

まず、八木秋子著作集全三巻についてお伝えします。
著作集は自費出版で、販売は友人が始めたJCA出版にお願いし、
私の手元で在庫は保管していました。
何か所かに分けていましたが、それぞれの所で保存が厳しく、
全三巻が揃うには難しいと思っていました。

ところが昨年の夏、妻の実家の納屋のような状態の所に保管してあったものを、
ホコリをはらって段ボール箱を開けたところ、新品同様の状態で見つかり、
40年ぶりに八木秋子著作集全三巻を希望する方に
お譲りできることになりました。

近代の<負>を背負う女 八木秋子著作集・Ⅰ
1978年4月20日刊行  1300円

の落ち葉を 八木秋子著作集 ・Ⅱ
1978年12月25日刊行 1800円

異境への往還から 八木秋子著作集・Ⅲ
1981年5月11日刊行 2000円

◎基本的に当時の本体価格に梱包料+送料を加えたものとします。
 近いうちに金額を決めます。

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新発見 八木秋子の詩「寂寥の冬」

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これまで八木秋子から聞いたこともなかったし、全く予想もしなかった詩「寂寥の冬」を見つけました。

◎文章倶楽部[第8年第三号]  大正十二年三月一日発行 新潮社 に掲載されていました。

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寂寥の冬  八木秋子


バッサリと雪のおもみの
庭にくづれる音をきき
更けし夜をひとり
炬燵にうづくまれば
想ひはとほく、とほくゆき
生きの身の悲しみは
胸の血を凍らせる。

灰色の空重くたれ
彼方にとほき地平線は
みぞれまじりの風に
うちふるふ
永遠の冬!
永遠のたそがれ!

はてしなき一すぢの小径を
うなだれつつ
まろびつつ
あゆみゆく
若き女(ひと)
そのまぼろしは
ああ、わたしであった。

見わたすに
一輪のくれなゐの花もなく
うたふ小鳥の影もなかった
さむさはわたしの唇を凍らせ
さびしさはわたしの胸を射た

いままた冬である。
冬はわたしのただ一人の友
をはりの日までの
伴侶(とも)であらう
冬はわたしの住家である。

わたしは春をおそれる
春のあゆみがちかづくと
もの狂ほしく叫びだす
春よ 春よ 来てはならない
わたしの胸をあたためてはならない
だが、どうしよう
おお、春はつひに近づくのだ。

日かげの雪が消え
黒い土の下から
血のやうな芍薬の芽が
ポッチリ顔を出す
あまい吐息をおくる
夕暮の靄。

おお、なやましい春
狂ほしい春
春よ 春よ 来てはならない
そしてわたしの
胸をあたためてはならない。


◎八木秋子がこの詩を書いた時期(大正12年 1923年)は、下記の年譜を見れば、父親の看病のために子供社をやめて木曾に戻り、教師をしている頃のことになります。

 1918年 ( 23 )
古山六郎と結婚、東京飯田橋に住む。

 1919年 ( 24 )
長男健一郎を出産。近くに住む児童文学者、小川未明をたびたび訪問。

 1921年 ( 26 )
5月1日、息子を置いて家出するも、子どもにひかれて戻る。
8月5日に再度、家出。都内で家政婦をしたのち、木曾福島へ。

 1922年 ( 27 )
2月、正式離婚が成立。上京して未明の紹介で子供社に就職、有島武郎から原稿をもらう。
胃癌の父の看病に帰郷。7月15日に父死去。母と亡兄の遺児を養うため日義小学校勤務。

 1923年 ( 28 )
9月、震災直後、息子健一郎の無事をたしかめるために上京。

 1924年 ( 29 )
6月、母死去。家を整理して10月に上京。

 1925年 ( 30 )
5月、投書がキッカケで東京日日新聞社入社。東京連合婦人会、俸給者生活者組合などに参加。永嶋暢子と知り合い交友する。
労働学院でアナキズムを知り、宮崎晃に出会う。

◎「文章倶楽部」 ぶんしょうクラブ
文芸雑誌、投書雑誌。大正五・五~昭和四・四。通巻一五六冊。大正文壇のなかにおける商業文芸雑誌「新潮」の地位上昇、文芸出版社としての新潮社の隆盛にあわせて、全国の年少の文芸愛好家を対象にして創刊された啓蒙的文芸投書雑誌。
『日本近代文学大事典』より

◎奥付に「新しき二篇の、女流二作家は、生田春月氏の推薦に係るものです」とありました。
春月は八木秋子が小川未明のところに足繫く通っていた頃(1919~1921)の知り合いです。しかし、この詩が発表されて7年後、昭和5年(1930)彼は瀬戸内海に身を投げています。享年38歳。その翻訳にはロシアの作家ツルゲエネフやゲエテ、ハイネなどがあり、「ニヒリズムからアナキズムへ」「詩は反逆の精神から生まれる」「人間の生命の響きをうたった」という評価があることから、八木秋子には共有する精神があったと思います。
産まれたばかりの健一郎を背に、二・三日おきに小川未明を訪ねたころ、客として生田春月がおり、その二人の影響をずっと受けていたということになります。

◎最後の「春よ 来てはならない」「わたしの胸をあたためてはならない」というフレーズは、子どもを置いて家を出た自分への心構えと思えます。いつも底辺の人たちの側に立ち、そしてアナキズムの実践活動へ入っていく時の心境も同じようなものだったと想像できます。

3歳の我が子を置いて家を出る、その決断には「その事実を生きている限り背負う」という覚悟を常に内面に抱え続けることだったと思います。八木秋子の「孤独」「放浪」の原風景と言えるのではないでしょうか。

この詩の発見は、彼女の生涯を貫く心のありようを示すものとして重要でした。

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書評[3] 『異境への往還から』

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八木秋子著作集Ⅲ『異境への往還から』の書評を整理しました。


八木秋子著作集全三巻は1981年5月に刊行されました。

それは、後に西川祐子さんによって書かれた思想の科学への書評のタイトルに
「時」に踵をつかまえられながら とあるように、八木秋子の肉体の衰えとの競争でした。
翌年1982年の3月に養育院から群馬前橋のメイ、岡さん宅へ移り、
1983年4月30日になくなりました。

Ⅲの内容については、「編集付記」(この末尾に掲載)に書いているように、
私は最初からこの「八木秋子日記」の収録をお願いしました。

日記を預かった経過はこれまでにも書いてきましたが、
清瀬の独居生活から集団の老人ホーム入りに際し、
私物は少なくし、身一つに近いという形が取り決めだったようでした。

それで引っ越し数日前に気になって片づけの様子を見に行きましたら、
そこにいたのは部屋の中で茫然としている八木秋子でした。

手に付かないということで、会社が終わってから何日か通い、
整理というより捨てるものをまとめていたら、
これまで書きためていたものを全部捨てると言い始めました。
それまでの話の中で、「書くこと」に大変執着していた彼女を知っていた私は
絶対それはやめるべきだと言い、
そうして預かった原稿の箱などと一緒にあったのが、
この20冊近くの大学ノートに書かれた日記でした。

何人かの評者がこの「八木秋子日記」に触れていますが、
八木秋子が書き残した日記の意味はもっと深く考えていく必要があると
思っています。

◆書評の抜粋 全文は資料館へ

◆毎日新聞 西川祐子 
八木秋子の軌跡
戦前戦後の思想風土に抗し続ける
  1981/7/1

「日記」には現実を生きることと創作にうちこむことの間を激しく行き来し、
他方で失職、老齢、孤独と貧困に追われる緊迫した心理が描かれている。
彼女はその後、未完の大作のあるべき読者にむかって、
投稿とか長い手紙の形でメッセージを送りつづけた。
虚空に消えそうであった発信を最後に受けとめたのが自分も悩みながらさまよい、
アンテナを張っていた世代であったのは偶然ではない。
真剣な問いかけに触発されて彼女が鋭い輝く文体で書きはじめ語りはじめたのは
現代の果てにある養育院の生活であり、生涯の空白の部分についてであった。
著作集は読めば読むほど書かれていない空白にさそいこまれ、
その豊かな空白を知るには著作集に残されているテキストを読まねばならないという
逆説的な「本」である。
わたしたちがこれを読み、彼女の軌跡を追いもとめるのは、
戦前と戦後の近代、
日本の思想風土に抗しつづけて立つ彼女の存在に強く心ひかれるからであろう。

◆神戸新聞(共同通信配信) 中村輝子
随所に"自立への強い意志" 全三巻 八木秋子さんの著作集完結
  1981/7/18

三十四年から二年間の日記、つまり六十五歳前後の実生活の記録も収められているが、
その「老い」への対し方は目をみはらされるだろう。

◆信濃毎日新聞 八木秋子さんの著作集 
自立の軌跡、3巻親友の支えで完結
  1981/8/6

信じる道をひたむきに生きてきた女の自立の軌跡である。
どのような場面でも、自立を強く希求する生き方には、目をみはらされる。

◆出版ニュース 8月上旬号 
異境への往還から-八木秋子著作集Ⅲ 八木秋子著
  1979/8

著者の格闘ともいえる対象(人)との対し方、
それを客観的に見詰める姿勢などは、我々の心を打つものだ。

◆婦民新聞 みずみずしい老いの記録 
異境への往還 八木秋子著作集Ⅲ
  1981/8/14

後半の1959年6月29日から、61年1月11日までの日記が、とくに興味が深い。
60歳の女性のこのみずみずしい感性の動きはどうだろう。
芸術への飽くなき憧れ、豊かな人間性、
日常に忙殺されて失いがちなそれらをたっぷりもって、思うままに生きている姿はうらやましいようだ。

◆読書新聞 三宅義子  
「八木秋子著作集」(全三巻)完結によせて
自らの全身をかけた生の軌跡
 模索の果てに刻みつけられ構築された精神世界
  1981/11/9

書を読みすすむうちに、その全身をかけた生の軌跡に魅了され、同時に模索の果てに刻み付けるようにして構築される精神世界の重みに圧倒されるような思いを抱かされた。

だが、それにもまして圧巻をなすのは日記である。
ここには八木秋子のすべてが露呈されている。
秋子は半生をふり返り、迷いながらも自己の存在を問いつめてゆく。
「私はまず自分自身を生きることを欲したのだ」と。
そして、いま書くことと生きることを一体化させようという欲求がやみがたい―「私自身のものを創らねばならないのだ」その思いは高田博厚氏との出会いによってさらに強まる。
恋愛。そして、終焉。―発見したものは、またしても自分自身だった。
孤独。生活の不安。だが、それを「孤独の喜び」と書く秋子には心の自由さがある。
八木秋子のアナキズムとは彼女の肉体の声でもあった。

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書評[2] 『夢の落ち葉を』

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八木秋子著作集Ⅱ『夢の落ち葉を』の書評を整理しました。資料館へ

新聞の書評は、いずれも内容を端的にまとめ、添える一言もふさわしいと思いました。

ここでは、信濃ジャーナルに書いた阿部浪子さんとリベルテールの橋本義春さんからの引用を多くとりました。阿部さんが出版記念会で「五十がらみの男性が八木秋子には文体がある」と言ったが「鋭い意見」だと思った人物こそ橋本さんだからです。

橋本さんの書評は今回読み返して、とてもすんなり自分の腑に収まっていくのに驚きました。当時と違った印象を持ちました。やはりその頃はイキがっていたのでしょうか、1979年発行時の八木秋子に迫っていた身体的状況への危機感が一番だったと思いますが、この『夢の落ち葉を』の内容自体を考える余裕がなかったのかも知れません。

「山中鹿之助と同じく<われに七難八苦を与え給え>」という「楽天性と悲壮味が混在」しているとは、都会での八木秋子を言い得て妙です。

よく、八木秋子が養育院に入らなかったら通信の発行はなかったと思うと人に言いますが、その混在の度合いというか落差が極めて激しい八木秋子との共同作業は「雑居生活」という中から生まれたと言えます。彼女が他の人、親族の方とかに引き取られていたら、おそらくありえなかったとは、彼女の何冊もの日記を読んで今も思うことです。

その都会の八木秋子が精気を求めて再生を願う時、木曾の「万象」があった、そこに自己の心の平衡を保ったという橋本さんの評に、その頃の自分は思い至らなかったと思いました。

そして、橋本さんは、アナーキズム文学を語る詩人(秋山清)を出して、「思想性とは自分で獲得するものだ」と明言しています。しかも【さりげなく、ひっそりと、心を鎮めて視る人にだけ提示される】と八木さんは教えて呉れると。

橋本さんは1930年生まれだから、49歳。なくなる5年前ということになります。その頃はすっかり「緩慢な死」に向かっていたように思えて、会う機会も少なくなっていましたが、今、哀慕の気持ちが湧いています。橋本さんのことについては「八木秋子の注釈 第32夜」で書いていますが、何時だったか最後に近い頃、一緒に呑んで別れる時「あいきょうさんは、いいよなぁ」と放たれた声がずっと気になっていましたが、この世界への眼差しについてのことだったかもしれません。

◆書評から抜粋 全文は資料館へ

◆朝日新聞  1979/2/25
今回は、満州引き揚げ後で母子寮で働きながら書きためた未発表作品四十数編を収録。
六十歳を過ぎ、通勤四時間、早朝から夜十時すぎの帰宅まできびしい仕事の中から生み出されたこれらの作品群には、ふるさと木曾福島で小学校教師をしていた青春時代、教え子たち、自伝風な家族点描、子どもから見た日露戦争......などが、みずみずしい情感をこめて描かれている。
先駆者としての運命を生きた女性のユーモアと愛に満ちた意外な一面に触れることができる。

★信濃毎日新聞 1979/2/28
明治、大正、昭和-。この激動の時代を、ひたすら自己の生に忠実に、自由に生きようとしてきた一女性の心の中に、深く根をおろし、生き続けてきた「ふるさと」とは何か。幼い日の著者の目に映った木曽の風俗や人情、父母の姿や女の生き方などと共に、その思想の原点に触れるようで興味深い。

★信濃ジャーナル 阿部浪子  1979/2
 五十がらみの男性が、八木秋子には文体がある、といった言葉が、私にはとくに感銘ふかかった。
彼は、八木さんの著作集と個人通信《あるはなく》の印刷をひきうけている印刷屋の主人だそうだがまことに鋭い意見だ、とおもう。
 彼女にとって書くとはなにか。
 「書くことは自分にとって生きる支えであった。それがあるからこそ、生きてきたのだ」と八木さんはしみじみ回顧する。男児を夫のもとにおいて家を出たあとも、実践運動に挫折したあとも、彼女は、文字をきざむことで自己省察し、悲惨な境涯から脱け出ようとした。言い換えれば、<酷しい自立の道>を歩んできたその背後で八木さんを支えてきたものは、書く、という行為にほかならなかった。その行為をとおして「肉体的な苦痛だった」という子捨てへの苛責も、「女だけが苦労した」という実践運動でうけた屈辱も、彼女の内部ではすでに客観化されているのではないだろうか。
 つまり、八木さんの作品は、生活の現場のなかで、内面から衝きあげてくる人間的な要求を、自分の言葉で表わしたものであり、そこに、印刷屋の主人がいみじくも語った八木秋子の文体が存すると、私はおもう。

*なお、阿部浪子さんはその後、信濃毎日新聞に八木秋子に関する文章を連載し、著書も出していますが、そこで八木秋子に触れている文章はいただけません。(相京)

★リベルテール 橋本義春  1979/11
何んとも可憐純真な文集が出版された。第一集<近代の《負》を背負う女>は論文時評小説ルポ集で今日の若者の言葉だと、どこかツッパッタ姿勢があったが-それは思想を生きる者として仕方のない面もある-ここでは清純で可愛い珠玉の文が見受けられる。

都会生活者としての八木秋子は三日月に祈る山中鹿之助と同じく<われに七難八苦を与え給え>と言う楽天性と悲壮味が混在しているが、前書きにあるような忙しい寮母生活を生きる合い間に書いた、どこに発表する宛のない文集では、木曾福島に残してきた<八木あき>に心ゆくばかり語らせている。

つまり都会文明の氾濫のただ中で、なしくずしにすり減らされて行く生命をいとおしむ時、また精気を求めて再生を願う時、彼女の言うプリミティブなものとは木曾福島の<樹からふきあがる緑>であり、<寒気のするようなふかい青>い淵であり、キソノナカノリさんであって、そうした故郷の万象を呼びだし語りかけ、また語らせることで自己の心の平衡を保とうとしたのだ。

アナーキズム文学は終った、アナーキストの文学があってよい...と語ったアナーキスト詩人がいる。これまでそうした提言はあったが実作にめぐりあう機会がなかった。

八木さんのこの文集はさような規定さえどんなに無意味であるかを示すだろう。思想性とは自分で獲得するものであって、それはさりげなく、ひっそりと、心を鎮めて視る人にだけ提示されるものであるらしい。八木さんはそう教えて呉れる。

書評 [1]『近代の<負>を背負う女』

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八木秋子著作集Ⅰ『近代の<負>を背負う女』の書評を整理しました。資料館へ

ずっと現物を保管していましたが、当然、傷みが激しくなり、PDFにして掲載しました。
その際、できるだけ読みやすくしようと、文字を起こして「テキスト版」を作りました。

あらためて読みなおすと、それぞれの評者の文章に八木秋子の魅力が書かれていることに気がつきました。引用の文章にもその評者の共感する思いが込められていると思いました。

◆八木秋子著作集Ⅰ 近代の<負>を背負う女 書評
「老衰と退歩に抵抗」「彼女の肉体をくぐって生まれた言葉には、真の思想といえるものがある。知識の再構成ではない、人間そのものをあらわにする言葉がある。」「非凡な洞察力と表現力。異彩を放つ文芸家」「論客・秋子の堂々たる風姿」「身をもって描いた鮮烈な軌跡」「底辺の人びとへの愛と連帯」「人間の自由と解放を求めてやまない一人の女性の一生」

キーワードを拾い出してみると、これから八木秋子を玄南工房に刻む方向が見えてきたように思います。

前から気になっていたことですが、著作集Ⅰは「あるはなく」の読者向けに配布する「資料」のようなつもりで作り始めたものでした。それがJCA出版の根来さんから出版の誘いを受け、その話にのって単行本にしました。

ただ、急いで作った記憶だけが残っていて、いつか「女人芸術」などで書いたものをあらためて蒐集して、整理を行おうと思っていましたので、これを機会にすすめたいと考えています。

もう一つは、やはり「養育院」という環境下での「八木秋子の言葉そのもの」が凄いということです。

以上、二つのことを考えていきたいと思います。


◆書評から抜粋 全文は資料館へ

★燃焼し続ける女 
婦人民主新聞  1978/6/16

「八十三歳というじぶんの年齢もわきまえ、前途には老衰と死があるだけだと思う。その覚悟を肚に据えてまだすべての終焉までにはいくばくかの時間的余裕もあろうし、わずかな能力の残滓も生活のなかに身をおいて老衰と退歩に抵抗を継続するその闘いの中に、現在の私の生命が光りを得て燃えることもあり得るにちがいない」(「あるはなく」第3号)から(帆)



波乱に満ちた自立への闘い
個人通信「あるはなく」発行八木秋子さん
家を捨て子とも別れ 良心に生きる老女の叫び

共同通信全国配信 各地方新聞掲載『中国新聞』
中村輝子 1978/6/21

八木さんの自己診断はさておき"生きるかぎり闘う良心から身もこころも離さない、しかも自由人でありたい"とひたむきに生きてきた彼女の肉体をくぐって生まれた言葉には、真の思想といえるものがある。知識の再構成ではない、人間そのものをあらわにする言葉がある。




女性のアナ・ボル論争
『女人芸術』誌上で藤森成吉に公開状

八木秋子著 「近代の<負>を背負う女」八木秋子著作集I

江刺昭子 図書新聞  1978/6/24

日本の女性アナーキストの思想と活動は、今以て大方が闇に埋もれたまま、婦人解放運動史やアナーキズム運動史から看過されている。このいささか片手落な現状に、今まで毀誉褒貶の外にいた八木秋子の著作集『近代の<負>を背負う女』の刊行は、異議申し立てをしているかにみえる。

当時のアナキストの最大の文芸誌『黒色戦線』に発表した「一九二一年の婦人労働祭』も読みごたえのある小説だ。革命ロシアの反革命運動に取材して単なるレポートに終わらせず、小説としてまとまっている。ほかに短い文芸評論や旅行記も収録されており、いずれにも非凡な洞察力と表現力がうかがえる。このまま文芸家としての道を歩めば、異彩を放つ存在になったろうと思われる。

が、秋子はこの後、かねてからの主張である自由連合社会実現のための実践運動に挺身した。もとより報われることを期待できない運動であり、泥にまみれ、傷つくのも覚悟だったろう。その時期の発言がどんなものであったか、続刊が待ち遠しい。



★アナキスト・八木秋子のこと 
 鮮烈な魂の軌跡 農村コムミュン夢みて

 堀場清子 朝日新聞  1978/6/26

逸枝の活動を手繰れば、論客・秋子の堂々たる風姿が、いやでも目についた。とりわけ座談会での彼女の発言には、きらめくような新鮮さがあって、八木秋子へと牽引されてゆく自分を、私はたえず意識するようになった。

戦前の女性誌に筆陣をつらねた高群逸枝と八木秋子。一人は30年間の女性史研究に自己を閉じ込め、古きものの探求によって未来を啓示した。一人は実践の場へと自己を駆り、過去いっさいを果敢に振り捨てつつ生きぬいた。逸枝の業績は偉大だが、秋子が身をもって描いた鮮烈な軌跡もまた、心を魅(ひ)きつけてやまない。



★一女性アナキストの魅力ある歩み
 北沢洋子 週刊ポスト  1978/10/20

敗戦後、かつての仲間が戦後民主主義の潮流に乗ってはなやかな婦人運動の指導者となって行ったのに、著者は工場の寮母や施設の職員といった底辺の人びとの中での生活を選んだ。今日八三歳の高齢でありながら、個人通信『あるはなく』を書きつづけている。恐らく著者がこの本の中にも収録されている小説「柿をもってきた父」、「チャルメラの記録」などに登場する底辺の人びとへの愛と連帯を、戦後の繁栄の犠牲となっている人びとに変らず寄せているからであろう。

本書は表題にあるようにアナキストとして戦前、戦後を生きた八木秋子の著作集第一巻である。この魅力のある女性の生き方を知るには、続巻とそして通信『あるはなく』を読まねばならない。社会の底辺に生きる人びとを書き、人間の自由と解放を求めてやまない一人の女性の一生をそこに見いだすだろう



転生記に出てくる人物の、短い紹介

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転生記を読みなおす中で、少なくともこの人物には「注釈」をつける必要が
あると思い、「玄條網」でいずれはまとめる予定ですが、その人物の紹介を
簡単にします。

庄司進一郎

1977年12月28日(水)
 1時頃相京君から電話、午后2時にいつもの喫茶店で会おうという。いま駅前の喫茶店で待ちつつこれを書く。帰ってきてから書く。相京君から届けられた葉書により、熊本の弁護士庄司進一郎氏が熊本市内の病院で急性脊椎炎のため急逝されたそうだ。よい人だった、いよいよ、あの世へ急行する人の多いこと。
..........................................................................................

庄司進一郎さんは「農村青年社事件」の時の弁護士だったと思います。
また、どういう関係だったか(息子さんか甥御さんか)
庄司宏さんという弁護士さんからも連絡がありました。
現在、当時のハガキや手紙の整理を始めていますので、見つかりましたら紹介します。
宏さんは連合赤軍やアラブ赤軍、東アジア反日武装戦線の弁護士を引き受けて活動していました。

195syoujihiroshi.jpg───────────────────────────────



辻晋堂

1978年7月17日(月)
 流汗淋漓。木曾をおもう。木曾へはいつ頃行けるか、強行になろう。奈良井といえば辻汎さんに会えるだろう。昔のボンさんに。

1978年8月8日(火)
 猛暑、言葉なし。午後3時近く、ひょっこり加納実紀代氏来訪
 (中略)
 実状として、長篇を書きつつあったとき迷いこんできた文無しの裸の彫刻青年を知り、その人間から何を感じ、何を得たかを語ったりもした。だが、これらは長い過去の放浪の産物、余技でもある。加納さんはこんな私の饒舌をどんな気持できいてくれたか。恐らく、現実暴露、深い失望と混乱で受応したか、反発したかとも思う。

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辻晋堂については、かなり詳しく書こうと思っています。
加納さんに話した
「長篇を書きつつあったとき迷いこんできた文無しの裸の彫刻青年を知り、
その人間から何を感じ、何を得たかを語ったりもした」という、
この青年が「辻晋堂」に間違いありません。
彼は「ボンさん」と呼ばれていました。

しかし、
「奈良井といえば辻汎さんに会える」という意味が謎となって残ります。

木曾の奈良井には姉、芦沢が住んでいて、夏には帰ることが多かったように思います。
そこで出会ったのか、「奈良井と辻晋堂」の関係が見えてこないのです。

ただ、葬儀の時、姪御さんたちが話している中から
「ボンさん」という名前が出てきたので、尋ねましたら感触として「辻晋堂」だと思いました。
しかし、その時もそれ以上は深く聴くことができず、
その後も親族の方とは音信が途絶えてしまっています。

八木秋子が残した戯曲ふうな書きかけの原稿に
「アトリエ」を訪ねる若い娘たち(モデルは姪御さんたちと思える)が描写されていたり、
何かを書こうとしたメモが残っていて、
それが明らかに「転がり込んできた青年」のことなので
ぜひまとめたいと思います。

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矢次一夫

1978年8月1日(火)
 暑い、雷雨のまねごとが折りおり。流汗りんり。
 相京君から「思想の科学」。今日原四郎、矢次一夫、京都の宮木典代さんからも。
 矢次氏から「8月14日はご都合いかが、昼でも夜でもよろしく。帝国ホテルが涼しいので、久しぶりに食事を致しましょう。洋、和、華、何でもあるので。但し夜か昼かご都合を、誰かおつれになりたい人があったら御遠慮なく」と。

1978年8月5日(土)
 例の岸信介の盟友、矢次一夫氏から重ねてハガキあり。いまさら岸の親友にゴチソウになるのも──と思って、暑さにまけて──とハガキの返事を出した。

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■この矢次一夫も面白いです。
八木さんの写真と記事が朝日新聞に載ってさぞ驚いたことでしょう。
矢次は韓国・台湾の政財界とのパイプ役として知られていますが、
八木さんとのつながりは、
大正末期から昭和初期にかけての婦人運動仲間が矢次の妻になったことによります。
永島暢子と知り合った頃です。
近衛文麿を支えた「昭和研究会」(主宰後藤隆之助)それに対抗した「国策研究会」(主宰矢次一夫)。
それぞれの主宰者の妻を知っていたという縁、

八木秋子を手繰って見えてくる景色はまことに不思議です。

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著作目録を見直しました。

ようやく全部を網羅できたように思います。

新発見のものとして2冊。

一つは
◆ 夏菊とお人形  初出:小学5年生 昭和6年7月号

これはネットの古書店検索から見つけました。ちょうど農村青年社が結成され、
長野県に講演に出かけたりしていた頃です。

もう一つは大発見です。
あの幻の「満州脱出記」が見つかりました。
この経緯は一つの「ものがたり」になりますが、
西川祐子さんの尽力で、国会図書館にありました。

満州脱出記(1) 初出:岐蘇民生新聞 昭和21年

残念ながら(1)しかありませんでしたが、木曾に帰り着いた
1945年(昭20)の暮れに書いたものです。
混乱の新京駅の描写は八木秋子らしい文章です。
著作目録の見直し作業がいったん終わったというお知らせだけで、
もう少し詳しくいずれ書きます。

「転生記」にリンクを張ったり、写真を入れました。
リンクは原則的に外部の情報は入れません。
日記の時系列に添い、八木秋子が書いたものへのリンクや
「あるはなく」に掲載される時間のズレなども加味してのもの、
そして、参考になるものもできるだけ少なくしました。

「転生記」はこれからも何度も読み返し、
八木秋子の日常を軸に「転生記の読み方」を考えていきたく、
「八木秋子の、養育院での日々の臨場感」を伝えたいと思います。

あの喧噪な日常から「著作集Ⅰのあとがき」や「あるはなく」の原稿が生まれたことに、
あらためて驚きます。


出発したところ、まだまだ不十分でした。

何度も見直したつもりでしたが、直したはずのものが他の段階のものと差し変わっていたり、リンクが間違っていたり、写真が載っていなかったりと不十分な出来でしたが、ようやく整理が出来たように思います。

ただ、少しずつわかってきたことは、この玄南工房を通じて資料が整理できることです。

玄條網ではまず、懸案だった「小倉正明」さんを、同郷の木曾上松出身の御獄海から入り、相撲道を語り続けた玉乃海も取り上げて掲載しました。

玉乃海は片男波部屋を作り弟子を育てました。その中でも「第15代横綱玉の海」は、戦前の伝説的な横綱双葉山の再来とまで言われ、現在NHKで大相撲の解説をしている北の冨士と一時代を築きましたが、横綱在位のまま突然なくなり、その死は多くの人に惜しまれました。
彼は初土俵以来休場なしで、この初場所に優勝した片男波部屋の玉鷲もその「休場なし」という意思を継いでいました。人柄も良く、いかにも片男波部屋らしい相撲道を歩んでいます。

ついで、玄條網では「永島暢子」を取り上げました。
「転生記」を最初の方からリンクを張り始めましたら、八木秋子が西川祐子さんのお手紙に触れていて、「永島暢子さんとの思い出」にリンクが必要になりました。その文章をまとめているうちに、他に私が「永島暢子」について書いている文章も出てきて、流れとしてまとめられました。おかげで、永島暢子の「玄條」の芯がまとまったように思えます。

このように、この玄南工房は私にとってこれまで書いてきたものや関連資料をまとめることに役立ちそうです。少しづつ愉しみながら、加えていこうと思います。

また、木曾の小倉正明さんも八戸の岩織政美さんも「日本共産党の議員」を長くつとめました。
お二人とも地元の人たちから慕われ、イデオロギーにこだわらない行動力のある尊敬する「好漢」でした。

岩織さんの人柄など「岩織さんを囲んで」に見えてきます。また、小倉さんもそのインタビューからうかがえますが、しかし一方で、何故それほどに「奉天での八木秋子との一瞬の出会い」を語り続けてきたのか、その点ももう少し考えてみたいと思います。